第26回 「修羅の道へ」その2
前回やったように(id:Mariner-S:20050629#p1)、原作の宮尾本&村上本の中から『義経』にどのように取り入れられたのか書いていこうかと思います。
村上本
うーん、あえて言えばこれかな?↓
義経(滝沢秀明)は、木曽義仲(小澤征悦)の首が獄門にさらされるという知らせを受け、その処分に反対するが、源範頼(石原良純)や梶原景時(中尾彬)にいさめられる。
このあたりのやり取りは村上本にもあり。ただし、村上本だと上記のように言った理由が「ただ情にほだされたのではなく、義経の祖父・父が死後に同様の辱めを受けているので、それが未だに胸の中に黒いしみになって残っている」となっていて、大河『義経』と微妙に違っている。大河『義経』は村上本のようなことを言いそうにないので、このエピソードを入れる際に脚本家氏が変えたのかな。
そもそもうつぼは村上本だと義経の妻となって奥州に残っているから、大河でのうつぼ絡みのシーンはオリジナル展開が多いんだよね。脚本家氏はうつぼを自由に遊ばせているなあ。
番外編:静とうつぼ
第26回を見終わったあと、『Snow Swallow』さん(id:SnowSwallow:20050706#1120647701)のところにカットされたシーンがあるとの記述があり、慌てて『義経 (後編) (NHK大河ドラマ・ストーリー)』を確認。結構多くの分量がカットされていて、もったいないな、と思った。
うつぼの「もう二度と行くもんか!」は、奥州に来たときの「来てしまったよ……」との対比なのかな。でも、私は「来てしまったよ……」のセリフに呆れていたので、もし「もう二度と行くもんか!」が流れてたら、うつぼの新たな迷言か誕生か? と爆笑していたかもしれない。
ここからは雑感。うつぼが奥州へ来たときと静が鎌倉にいたときとであまりにも似たエピソードを繰り返すので、なんでこんなことするんだろう、とさっぱり分からなかったんだけど、似たようなエピソードを通して、
- 静―受動的
- うつぼ―能動的
ってことを言いたかったのかな。いまさらな話かもしれないけど。それにしても、静とうつぼが鉢合わせするとは思わなかったよ。なんか、こういうことをやるのがいろんな意味ですごいなと思う。上手くいえないけど。